2012年8月8日水曜日

護送船団行政の現実

大手銀行はなぜ、大蔵官僚たちに日常的な接待攻勢をかけていたのか。それは、戦後の大蔵省の金融行政を特徴づける「護送船団行政」を抜きには考えられない。これは、丸腰の商船や輸送船が組んだ船団を海軍の艦隊が護送する場合、最も船脚の遅い船の速度に合わせることからきている。そうしないと、遅い船は海に置き去りにされ、敵艦や敵機の餌食になったからだ。

同様に大蔵省は最も経営効率が悪く体力が弱い金融機関を基準に、さまざまな規制や保護策を講じたのである。中小金融機関から台湾銀行のような国策の大手銀行までがばたばた倒れた昭和初期の金融恐慌を教訓に、「金融機関はひとつもつぶしてはならない」という掟を自らに課したのである。

法律や政省令、行政指導などによって保護と規制はあらゆる分野にわたった。銀行、証券、保険の業態別の垣根規制をはじめ、金利、新商品開発・販売、支店設置の認可などの重要な規制に限らない。今となっては、ほとんどお笑い草だが、看板のかけ方、客に渡す景品の種類、カレンダーの大きさに至るまで大真面目に口を出したのである。だが、やはり規制の中核といえるのが、業態別の垣根規制と、他産業では商品の価格に相当する金利の規制である。

業務分野規制では、まず、銀行業務と証券業務、さらには保険業務を分離した。そして、銀行業務の中でも長期金融と短期金融の分離、銀行業務と信託業務の分離、中小企業分野の特定化、外国為替業務の特定化が行われた。これらの中で重要なのは、銀証分離、長短分離、銀信分離の三つの垣根である。

厳しい垣根規制で、銀行や証券会社、保険会社などは狭い分野に閉じ込められた。強い力を持つ大手は他の分野に参入する機会を奪われたものの、中下位の企業は手ごわい新規参入者からの攻勢にさらされずに済んだのである。

一方、商品の価格に相当する金利の規制によって、金融機関はさらに競争を免れていた。調達金利である預金金利はもちろん、貸出金利までもが法律や大蔵省・日銀の行政指導で規制されていたのである。業態別の垣根と金利の二重の規制と保護によって、金融機関は手厚く保護された。

この結果、経営体力が弱く非効率な下位金融機関でもそれなりの安定経営が可能になり、上位金融機関は巨額の超過利潤を得ることができたのである。超過利潤は利益の形で表面化しただけではない。大手銀行の行員は世間の常識を超える高給を得ることができた。まさに、大蔵省が主導した「官業一体カルテル」にほかならない。

大手銀行が大蔵官僚たちを接待した理由は、銀行検査の日時、対象支店などという個別具体的な情報を取るという目的は確かにあった。しかしそれ以上に、護送船団行政で巨額の超過利潤を保証してくれていたことの見返りでもあったのである。それだけに、金融機関による大蔵接待は根が深いともいえる。

では、護送船団行政で安定経営を保証してもらっていた中小金融機関はどう返礼していたのか。彼らは、天下りポストの提供をその見返りとしていたのである。ノンキャリアも含めた大蔵官僚の天下り先は、大手金融機関よりも圧倒的に中小金融機関のほうが多いのである。

九三年四月に金融制度改革関連法が施行されてからは、ようやく垣根規制が取り払われ始めた。同年六月には郵便貯金も含めて定期性の預貯金の金利規制は事実上撤廃された。翌九四年一〇月には要求払い預金(流動性預金)の金利も自由化された。九六年一一月には、当時の橋本龍太郎首相が二〇〇一年一月をメドとした「日本版ビッグバン」(金融制度改革)構想を提唱した。キーワードは「フリー」「フェア」「グローバル」である。

九八年四月の外国為替自由化を皮切りに、ビッグバンに向けて銀証分離、長短分離、銀信分離などの垣根規制は次第に撤廃されつつある。また、海外業務を行う金融機関の自己資本比率を八%以上とする国際決済銀行(BIS)規制が厳密に適用され始めた結果、それに耐えられない北海道拓殖、日本長期信用、日本債券信用などの大手銀行が次々と破綻した。

「大蔵省金融汚職事件」は、日本の金融業界、さらには金融行政の転換期に起きた事件だったのである。この事件が起きた時点ではすでに、それまでの長い与野党間の「財政・金融分離」論議の結果、九八年六月に金融監督庁が設立されることは決まっていた。そして、この事件や長銀の破綻処理をめぐる論議によって、九八年十ー月に金融再生委員会が設立され、二〇〇〇年七月に金融庁が設立されることが決まったのである。

この間、金融監督庁設立、金融再生委員会設立、そして今回の金融庁設立と、次々に金融行政部門が改革された。これによって、日本の金融行政そのものが変わったのか。それとも、じつはあまり変わらなかったのか。検証が必要だ。