2012年12月25日火曜日

出生抑制の必要が強く認識され始めた

すでに一九四六年以来、旧ソ連と旧満州の国境から命からがら引き揚げて来た女性たちには、日本上陸と同時に全員に妊娠検査が行なわれ、ソ連兵との間の妊娠が疑われるものについては、すべて人工妊娠中絶手術が行なわれていた。それらのほとんどは、おどかされ銃をつきつけられての強姦による妊娠であり、年若い女性が混血児をかかえて、日本国内で生きていくのは大変なことであったろうし、またそれを恥として自殺する者も出る可能性はある、したがって特別の人命救助なのだと、その任にあたった産科医も看護婦も自分の心にいい聞かせてはいる(上坪隆著『水子の譜』徳間書店)。

しかし、「この風呂場(手術室のこと・吉村註)でとりあげられた妊娠後半期の赤ちゃんは、しばしば泣き声をあげたという。生きて生まれてきたのだ。弱いうぶ声をあげて泣く赤ちダんを看護婦たちはどうすることもできず、風呂場の片すみに置いておいたという。泣き声はいつか細くなり、そのうち冷たくなっていった」ということも、前掲書には記されている。法律の改正が行なわれたのは、わが国には敗戦と同時に占領軍が進駐し、その若いアメリカ兵だちと日本女性の間には次々と合意か強姦かは別として、混血児の誕生が予想されたからではないだろうか。

追加制定された優性保護法の経済条項は、前に述べたような状態にある女性だけでなく、一般のようやく戦禍からのがれ、戦後の窮乏期を切り抜けねばならない若い人妻たちにも影響を与えた。また後には、女性の自立にもつながった。まずなによりも敗戦による食糧や住宅の不足は、とくに都市部ではなはだしく、そのうえ戦後戦地から続々と復員、引き揚げて来た若い夫たちを迎え、後にベビーブームといわれる、急激な人口増加が起こったからで、そのため、一般国民の間に出生抑制の必要が強く認識され始めた。

第二に、「産めよ殖やせよ」政策や、ベビーブームによる人口増加によって早晩人口過剰の起こることが懸念されたから、戦後、政府や民間の家族計画推進団体が、出生抑制を人口政策の主たる方向と定めた。そしてこれらの目標となる、出生抑制として、優生保護法で容認された人工妊娠中絶が強く影響をおよぼしたのである。つまり「ベビーブームの終結とともに、わが国の出生率は急激な低下を示し始めたI-中略-この出生の低下は主として人工妊娠中絶によって行なわれるという事態が出現した」。

しかし、この人工妊娠中絶手術が解禁されはしたものの、中絶手術による女性の身体の損傷や後遺症などへの関心は、まったく払われていなかった。むしろ行政を通じて流される受胎調節や避妊奨励の情報およびコンドームを主とした現物の廉価販売などは、一般の人々に「貧乏人のようにボコボコ子どもを産むのは恥ずかしい」(岡村島、N子さん)、「昔とちかって今はいやなら子どもを産まんでも、なんぽでもやめる方法はある」(岡村島、N子さんの姑の言葉)という安易な中絶依存ムードを助長した。

それでなくとも、わが身を切りきざむような人工妊娠中絶手術を受けるのは、常に嫁という一家の中で一番弱い立場の人間であったため、その受ける心身の深い痛みをおもいはかる人は、ほとんどなかった。夫の無理解や姑の強制あるいは自分の意思などによって、彼女たち若妻の受けた人工妊娠中絶手術の回数は、十指でも足りない人も珍しくない。お産事情の聞き取りのため、一九八〇年代に訪れた漁村や山村で、私は初老期を迎えた彼女たちと出会い、次のような話を聞いた。