2015年3月16日月曜日

ボートピープル

一九八九年、ツ連・東欧の激動は、世界各地の社会主義諸国に波及し、それまでは糸口もみつからないほど堅固にみえた戦後国際政治の基本的な枠組みが、今や、大きく揺さぶられている。そして、新しい時代への模索が始まろうとしている。ソ連・東欧でのこの激動の直接的なきっかけとなったのは、大量の難民流出であった。

この年の春頃から夏にかけて、東ドイツを脱出した一〇万人を越える難民が、ハンガリーのオーストリアとの国境ぞいや、プラハにあった西ドイツ大使館につめがけた。天安門事件での中国政府の弾圧を支持したホーネッカー政権に対して、民衆はもはや我慢しようとはせず、東ドイツから脱出することによって、拒否の姿勢をはっきりと表わした。まさに、国境越えの「歩きによる票決」を行なったのである(一九九〇年一〇月三日のドイツ統一前までの難民問題を扱っているので、東西ドイツにわけて説明を行なう)。

このことは、国内に踏みとどまった人々にも大きな衝撃を与えた。東ドイツ一六六七万人(一九八八年当時)のうち、これほど多くの自国民が難民として流出せざるをえないような状態しか生み出せなかった政府、そしてその政治体制に、民衆は、もはや耐え忍んではいなかった。ドレスデン、ベルリンあちらこちらの都市で、連日、何万人という人々が、デモに集まり、民主化を要求し、ついに政治改革を約束させた。

目を日本に転じてみると、この一九八九年は、日本が難民問題にかかわった歴史のうえで、際立った年であった。この年の春頃から、「難民」をこぼれんばかりに満載した小型船が、五島列島や沖縄諸島、鹿児島県徳之島や熊本県の沿岸に、相次いでたどりついた。とりわけ八月には1ヵ月間だけで、その人数は約一六〇〇人、船の数は一一隻に達した。同年一年間では、その人数は約三五〇〇人(前年比では一六倍にもなる)、船の数は二三隻にのぼった。

このように小船で海上に逃れて他国の保護を求める難民は、「ボートピープル」といわれる。サイゴン(現在のホーチミン市)陥落から1ヵ月後の、一九七五年五月、アメリカ船舶によって、南シナ海を漂流中に救助されたヴェトナム人ボートピープルが、はじめて日本の港に入った。その人数は九人であった。

その後、運よく近隣諸国にたどり着いたり、通りかかった船舶に救われたボートピープルは、一九七九年には、一ヵ月間で五万人に達するほど激増したことがあったが、それでも、そのうち日本に到達した人数は、その年一年間を通じてみても、約ニ〇〇人響まりであった。日本に到達した難民が最も多かった一九八〇年でも、その人数はニ○○人足らずであった。