2015年7月16日木曜日

多国籍銀行の破綻

私はその後七七年末に、東銀が出資したロンドン所在の多国籍銀行が破綻に瀕したので、再建屋の一人としてロンドンに赴任した。悪戦苦闘して八二年に帰国すると、時代は変わっていた。いくらでも借り手のある慢性的な資金不足の高度成長時代から、とにかく借り手を探すことが最重要課題という資金過剰の時代へと変わっていた。

その頃になると、多くの銀行は、リレーションシップーマネジメントの考え方を導入し、営業推進をする幹部行員が与信判断もやることで意思決定の迅速化を図り、競争に勝ち抜こうという体制を取り始めていた。より多く貸付ける。これが競争に勝ち抜くための主要な戦略となっていた。

帰国した私か営業推進の戦略を担う営業企画部の副部長になった頃は、東銀でも審査部の地位は大きく低下していた。先で見た米国での優良企業の銀行離れが、我が国でも着実に進行し、大手企業との取引採算が、確実に低下しつつあった。
 
たとえば、東証一部上場二百二十五社の長期資金中の借入金の比率は、八一年には一三%であったものが九〇年には四%程度に落ち込むというありさまであった。そこで大手銀行は七〇年代末から八〇年代にかけて、中小企業や個人向け融資を重視するようになってきた。しかも、リスクの大きな融資先なのに、融資審査機能を格下げし、業務拡大重視の機構改革を行ったのだった。

これは、多少のリスクには目をつぶって、融資基盤を拡大しようとする姿勢の反映であり、与信審査や信用リスク管理の精緻化に裏付けられた動きではない。事業の成長性、それが生み出すキャッシュフローの予測などよりは、土地をもっているか、メインバンクはいざというときに頼りになりそうか、といった項目のほうが重要視された。