2016年2月15日月曜日

小沢一郎の役割

ここまで与党内の権力関係についてやや詳しく触れたのは言うまでもない。細川の突然の辞任と、その後の後継者選びの過程であらわになった与党の結束の乱れは、その後の連立政権の方向を決めた、すなわち社会党とさきがけを自民党に近づけさせたという意味で極めて重要な出来事であったからである。しかし、いずれも、小沢一郎の望む方向には事態は進まない。

小沢と武村が、もともと自民党に所属しながら、細川内閣で決定的な対立関係に入ったのはなぜか。政治手法と政策面から説明される。小沢は武村が、首相を支える官房長官の役割を放棄して、勝手に自分の意見を述べていたことに強い不満を持っていた(小沢一郎「語る」)。トップダウンを好む小沢に対して、話し合い重視の武村といった政治手法の違いもあった。

政策面では、国際貢献ひとつをとってみても、小沢が国連軍への参加など、当時の日本の雰囲気からすれば異端といえるほどに積極的であったのに対して、「小さくともキラリと光る日本」を目指す武村は、そこまで積極的ではなかった。また、全く別の角度から、武村は小沢に違和感を覚えていた。すなわち、経世会の流れをくむ新生党に対する政治的な反発である(武村正義証言、「新党」全記録第三巻)。

是非は別としても、連立の時代に小沢の果たした役割は、極めて大きかった。政策が大胆で、わかりやすく、決断も行動も一貫していたからである。そのことは、細川連立政権が誕生する過程を振り返れば一層明らかとなる。もし、旧竹下派、経世会から、小沢や羽田が独立しなければ、細川連立政権の誕生もまたなかった。