一九八九年、ツ連・東欧の激動は、世界各地の社会主義諸国に波及し、それまでは糸口もみつからないほど堅固にみえた戦後国際政治の基本的な枠組みが、今や、大きく揺さぶられている。そして、新しい時代への模索が始まろうとしている。ソ連・東欧でのこの激動の直接的なきっかけとなったのは、大量の難民流出であった。
この年の春頃から夏にかけて、東ドイツを脱出した一〇万人を越える難民が、ハンガリーのオーストリアとの国境ぞいや、プラハにあった西ドイツ大使館につめがけた。天安門事件での中国政府の弾圧を支持したホーネッカー政権に対して、民衆はもはや我慢しようとはせず、東ドイツから脱出することによって、拒否の姿勢をはっきりと表わした。まさに、国境越えの「歩きによる票決」を行なったのである(一九九〇年一〇月三日のドイツ統一前までの難民問題を扱っているので、東西ドイツにわけて説明を行なう)。
このことは、国内に踏みとどまった人々にも大きな衝撃を与えた。東ドイツ一六六七万人(一九八八年当時)のうち、これほど多くの自国民が難民として流出せざるをえないような状態しか生み出せなかった政府、そしてその政治体制に、民衆は、もはや耐え忍んではいなかった。ドレスデン、ベルリンあちらこちらの都市で、連日、何万人という人々が、デモに集まり、民主化を要求し、ついに政治改革を約束させた。
目を日本に転じてみると、この一九八九年は、日本が難民問題にかかわった歴史のうえで、際立った年であった。この年の春頃から、「難民」をこぼれんばかりに満載した小型船が、五島列島や沖縄諸島、鹿児島県徳之島や熊本県の沿岸に、相次いでたどりついた。とりわけ八月には1ヵ月間だけで、その人数は約一六〇〇人、船の数は一一隻に達した。同年一年間では、その人数は約三五〇〇人(前年比では一六倍にもなる)、船の数は二三隻にのぼった。
このように小船で海上に逃れて他国の保護を求める難民は、「ボートピープル」といわれる。サイゴン(現在のホーチミン市)陥落から1ヵ月後の、一九七五年五月、アメリカ船舶によって、南シナ海を漂流中に救助されたヴェトナム人ボートピープルが、はじめて日本の港に入った。その人数は九人であった。
その後、運よく近隣諸国にたどり着いたり、通りかかった船舶に救われたボートピープルは、一九七九年には、一ヵ月間で五万人に達するほど激増したことがあったが、それでも、そのうち日本に到達した人数は、その年一年間を通じてみても、約ニ〇〇人響まりであった。日本に到達した難民が最も多かった一九八〇年でも、その人数はニ○○人足らずであった。
2015年2月16日月曜日
新中国誕生以来の中国の歩み方
中国もいいことばかりが起きたわけではない。激しい市場競争原理はたちどころに貧富の格差を生み、また手っ取り早く勝ち組となるために、権力と金の激しい癒着が始まったのだ。権力の濫用、汚職や賄賂、それらが日常茶飯事化して仝国にあまねく蔓延し、腐敗政治を招くに至る。その風潮は、社会におけるモラルや精神文化にもたちまち浸透していき、まるで封建社会に戻ったような印象さえ受ける。その背後には、ソ連崩壊に危機感を抱いた中国共産党が党権力の強化を市場経済の中に持ち込んだ、という特殊事情もある。その結果、社会主義国中国は、官僚資本主義のような特権階級を生み、党幹部がその利益集団の中心に座るようになってしまったのだ。二〇〇八年(二一月末)は中国の改革開放三〇周年であり、二〇〇九年は新中国、すなわち中華人民共和国誕生六〇周年記念であった。
この数値からも分かるように、新中国誕生以来の中国の歩みを考えると、毛沢東が革命理論を中心として尽きることのない階級闘争を繰り返し、プロレタリアート(無産階級)の国、中国を建設しようとして推進していた計画経済時代と、それにピリオドを打って改革開放を断行した鄙小平によって推し進められてきた市場経済時代の中国は、それぞれ「三〇年」という、ちきりど同じ年月を経ているのである。逆に言えば、新中国が誕生してから、革命精神に燃えて(燃えさせられて?)古六に社会主義的な計画経済を推進していたのは、「わずか三〇年でしかなかった」ということである。私たちは、社会主義国家、中国を分析するときに、まず、そのことをしっかり頭に入れておかねばならない。
新中国が到来するまでの中国は、数千年にわたる封建主義的な専制政治が大地の底まで沁み渡った中国であり、たとえ一九一一年に孫文を中心とした辛亥革命により一時的に共和制を打ち立て中華民国が成立したものの、その後の蒋企石、国民党政権も含めて、この土壌は変かっていない。したがって、一九四九年一〇月一日から三〇年間、毛沢東がどんなにプロレタリアートの国を目指して中国共産党による社会主義国家建設に必死になったとしても、庶民の染色体に織り込まれているような封建主義的感覚は、消えていないのである。その証拠に、改革開放を唱え、「先富論」という「先に富むことができる者が先に富め」という号令が掛かってからは、一見消えていたかのように見えた封建主義的価値観は、一瞬にして息を吹き返し、銭に向かって突進する庶民の間をうねり、政府高官たちに腐敗をもたらし、現在の胡錦濤政権を困らせている。
この数値からも分かるように、新中国誕生以来の中国の歩みを考えると、毛沢東が革命理論を中心として尽きることのない階級闘争を繰り返し、プロレタリアート(無産階級)の国、中国を建設しようとして推進していた計画経済時代と、それにピリオドを打って改革開放を断行した鄙小平によって推し進められてきた市場経済時代の中国は、それぞれ「三〇年」という、ちきりど同じ年月を経ているのである。逆に言えば、新中国が誕生してから、革命精神に燃えて(燃えさせられて?)古六に社会主義的な計画経済を推進していたのは、「わずか三〇年でしかなかった」ということである。私たちは、社会主義国家、中国を分析するときに、まず、そのことをしっかり頭に入れておかねばならない。
新中国が到来するまでの中国は、数千年にわたる封建主義的な専制政治が大地の底まで沁み渡った中国であり、たとえ一九一一年に孫文を中心とした辛亥革命により一時的に共和制を打ち立て中華民国が成立したものの、その後の蒋企石、国民党政権も含めて、この土壌は変かっていない。したがって、一九四九年一〇月一日から三〇年間、毛沢東がどんなにプロレタリアートの国を目指して中国共産党による社会主義国家建設に必死になったとしても、庶民の染色体に織り込まれているような封建主義的感覚は、消えていないのである。その証拠に、改革開放を唱え、「先富論」という「先に富むことができる者が先に富め」という号令が掛かってからは、一見消えていたかのように見えた封建主義的価値観は、一瞬にして息を吹き返し、銭に向かって突進する庶民の間をうねり、政府高官たちに腐敗をもたらし、現在の胡錦濤政権を困らせている。
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