2016年4月15日金曜日

イラン・イラク戦争

イラクは既に革命を経て共和制になっているのであるが、イラクにもイランからの革命の輸出を恐れる理由があった。新生イラクの国づくりの勢力争いでご承知のようにイラク国民のイスラムはシーア派が多数派であり、フセイン大統領時代は少数派のスンナ派中心の構造になっており、シーア派は多数派にもかかわらず常に抑圧されていた。イランの影響を受けたイラクのシーア派モスレムがフセイン体制を崩壊させようとして革命を起こそうとする可能性をフセインは恐れたのである。

1982年フセイン大統領はイランに戦争をしかけた。イランとイラクの間では国境問題が歴史的な争点であった。シャトルアラブ川の国境ラインをどのように引くのかということであった。国境線の引き方によっては地下に眠る資源の帰属にも影響が出てくる土地柄である。また、イランの革命輸出を阻止するためにイランを叩いておこうという思いがフセインにはあったであろう。イラン・イラク戦争が始まると、次第に周辺諸国はイラク寄肌雌態度をとり始める。イラクはアラブの同胞であり、革命輸出をブロックする期待の星である。

アメリカを悪魔と呼び、イランの街角の壁には「アメリカに死を」という落書きが満ち溢れるイランに対して米国はもちろん、西欧諸国もイラク寄りになる。つまり、イランは国際社会から封じ込められる形になったわけである。イラクは米国から武器を調達し軍事力を強化することになる。当時のイラクとの親密な関係を物語るフセインとラムズフェルドが会談している写真がこのたびのイラク攻撃後に何度かマスメディアで紹介されたことを覚えている読者も多いであろう。つまり、米国は自己のスタンダードで臨機応変にパートナーを代えることができる国家である。

2016年3月15日火曜日

陪審員の経験は法的センス向上のチャンス

多分、それはこういうことでしょう。刑事陪審だけならば、人々は「イヤだな、陪審員がまわってきちゃったよ。くだらない犯罪に付き合わされるなんて困ったものだ」と本音のところでは思い、刑事裁判が終わっても似たような感想しか持てない人が結構いるかもしれません。

それはひょっとすると、刑事弁護に携わった弁護士の無力感というか、失望感のようなものに似ているのではないかと想像します。こんなことを言うのは不謹慎ですが、刑事弁護をやりたがらない弁護士が多い理由の一つにそういうことがあります。

他方、民事裁判の陪審員がまわってきたら、やっぱり最初は「イヤだな、くだらないトラブルを起こして。ちゃんと話し合って解決してほしかったよな」と思うかもしれません。しかし、実際に双方の言い分を聞いて、どちらが正しいか、社会としてどう対応すべきか、自分が当事者の立場になったらどうなのか……。

そうしたことをあれこれと考えることが結構いい経験になり、そういう人々が大勢出てくることで、日本人の契約センスや法的センスが磨かれ、おかしな社会常識の見直しなども進むのではないかと思います。それによって、人々の社会に対する責任感といったものも育まれていくことも期待できます。二十一世紀の日本は、そういう方向で進んでいくべきではないかと思うのです。

2016年2月15日月曜日

小沢一郎の役割

ここまで与党内の権力関係についてやや詳しく触れたのは言うまでもない。細川の突然の辞任と、その後の後継者選びの過程であらわになった与党の結束の乱れは、その後の連立政権の方向を決めた、すなわち社会党とさきがけを自民党に近づけさせたという意味で極めて重要な出来事であったからである。しかし、いずれも、小沢一郎の望む方向には事態は進まない。

小沢と武村が、もともと自民党に所属しながら、細川内閣で決定的な対立関係に入ったのはなぜか。政治手法と政策面から説明される。小沢は武村が、首相を支える官房長官の役割を放棄して、勝手に自分の意見を述べていたことに強い不満を持っていた(小沢一郎「語る」)。トップダウンを好む小沢に対して、話し合い重視の武村といった政治手法の違いもあった。

政策面では、国際貢献ひとつをとってみても、小沢が国連軍への参加など、当時の日本の雰囲気からすれば異端といえるほどに積極的であったのに対して、「小さくともキラリと光る日本」を目指す武村は、そこまで積極的ではなかった。また、全く別の角度から、武村は小沢に違和感を覚えていた。すなわち、経世会の流れをくむ新生党に対する政治的な反発である(武村正義証言、「新党」全記録第三巻)。

是非は別としても、連立の時代に小沢の果たした役割は、極めて大きかった。政策が大胆で、わかりやすく、決断も行動も一貫していたからである。そのことは、細川連立政権が誕生する過程を振り返れば一層明らかとなる。もし、旧竹下派、経世会から、小沢や羽田が独立しなければ、細川連立政権の誕生もまたなかった。

2016年1月18日月曜日

西欧文明の「契約一再契約の法則」

第三法則であるが、西欧の要塞文明は「契約一再契約の法則」が支配しているのに対し、日本の無常感文明は「作用・反作用の法則」が支配しているという点で著しい対照をなしている。

西欧の「契約」には大別して唯一絶対の神との契約というタテの契約と、異なる部族や国同士が同盟を組む際の契約、国民国家を築く際の基礎となった社会契約、企業同士や企業と個人が取り交わす契約といったヨコの契約がある。そして、西欧はこの契約を結んだり破棄したりすることで文明が動くのである。これを私は「契約一再契約の法則」と名づけた。

西欧では神との契約でさえ「契約一再契約の法則」が当てはまることは、改宗を見れば明らかである。イスラム教徒からキリスト教徒に改宗するとか、あるいはその逆を考えてみればよい。アッラーとの契約を破棄して新たにエホバと契約を結ぶ、あるいはその逆が改宗なのである。古代ユダヤ教の契約がイエスの出現によって更改されたからこそ、聖書は旧約と新約に分かれるのである。

神との関係でさえ「契約一再契約の法則」が貫かれるのであるから、国と国、組織と組織から人間同士の関係に至るまで「契約一再契約の法則」が貫かれるのは当然である。結婚式は神の前で契約を交わす儀式であり、離婚と再婚はまさに前の配偶者との契約を破棄して別の配偶者と契約を交わす行為なのである。

だが、日本ではそもそも神との契約という観念が皆無であったがゆえに、今日に至るも契約という考えがなじまないところがある。契約を結んでも、細部は互いに誠意をもって話し合いにする、などといった美辞麗句であいまいにしておくことも珍しくない。それでも社会が動いてゆくのである。出版契約のように、本を出す前ではなく、本ができ上がってから交わす契約さえある。西欧の出版社では考えられないことである。

私は日本人の行動の無節操ぶりを描いたのだが、じつは西欧の人間もまた無節操という点では同じなのである。というより、人間は誰しも無節操なところがあるのが自然なのである。だからこそ、どこの国でも命を賭けて圧政や宗教弾圧と戦い、自己の信念に殉じた人を讃える美談が残っているのである。

にもかかわらず、西欧人のほうがずっと節操を保っているかのように見えるのはじつはこの「契約一再契約の法則」があるからである。国際社会では、戦後ドイツ人は過去を反省しきちんと謝罪したのに対し。日本人は反省も謝罪もしていない、ということで日本人の評判はドイツ人とは比べものにならぬほど低いのは周知の事実である。