2014年6月25日水曜日

連立政権下の日米安保関係

第一の対立軸は外交・安全保障政策だが、対立軸を構成する要素は二つある。一つは日米安全保障条約、一つは国連協力、より具体的には国連PKO活動への日本の参加問題で、連立政権の時代のこの二つの分野の議論の流れは、以下のとおりである。

冷戦が終わり、安保条約の前提であった仮想敵ソ連は消滅した。もはや日米両国とソ連の問には、軍事的、イデオロギー的対立関係はなくなった。こうして、今後、日米安保条約の存続を、どのような根拠に求めるべきかが問われることになった。一九九六年四月、橋本、クリントン会談は日米同盟を再確認し、アジア太平洋の平和と安全を維持するために引き続き安保条約が必要なことで合意をみた。

冷戦終結後、なおも続く朝鮮半島危機は、日米安保条約の意義を高めることになった。核開発疑惑に加え、ミサイル発射、とりわけ九八年八月、日本列島を横断した北朝鮮のテポドン発射は、周辺有事の際の日米協力について議論を加速させ、九九年五月には、日米防衛協力のためのガイドラインを国内的に担保するための周辺事態法案が成立した。こうして日米協力のあり方については、単に日本が攻撃された場合に限らず、アジア太平洋地域において周辺事態が生じた場合も、自衛隊が米軍を後方支援することが決まった。

日米安保の堅持、強化の流れと並行して、中国、朝鮮半島を含むアジア太平洋の多角的安全保障の枠組みの必要性を強調する議論もあった。冷戦終結後のアジアには、二国間の安全保障の枠組みに代えて、アジア版OSCE(全欧安全保障協力機構)こそが有用という議論である。アジアの軍縮を目指して発足したARF(ASEAN地域フォーラム)が、その萌芽のように思われた。こうした多国間の枠組み重視の考え方は、駐留なき安保論や、日米安保条約は当面維持するが、朝鮮半島が統一されれば、日米安保の見直しはありうるという議論につながる。

日本のアメリカ離れという点では、以前からあった自主防衛論も顔をのぞかせた。イラク、旧ユーゴ紛争など、冷戦後の世界で明白となったアメリカの一極支配、あるいは国益を全面に押し出したアメリカ外交に対する批判の裏返しともいえる議論である。

2014年6月11日水曜日

雇用保険制度へ転換した最大の理由

一九七三年に突発的に生じた石油ショックは、日本経済に深刻な影響を与えました。雇用にも大きな影響が及び始め、完全失業率は二%を超えました。このような時代状況を背景に、雇用政策の一大転換が行われました。失業してからの対策だけでなく。失業の予防を重視する政策への転換です。

本来、雇用の維持・安定は第一次的には個別企業の自助努力によるものです。雇用創出にむけた環境整備、金融や財政、税制上の措置は国の産業政策として打ち出されます。従来、雇用政策は産業政策や経済政策の後追い的政策とみられてきました。深刻な経済情勢を理由に、雇用対策の抜本的な拡充を求める声が、産業界や労働界で強まってきました。そこで失業保険から雇用保険への大転換が行われたのです。

雇用保険制度へ転換した最大の理由は、失業予防を雇用政策で行おうとするものでした。そのため、雇用保険の雇用安定事業として雇用調整助成金制度が創設されました。不況で労働者を休業させたり、職業訓練を受けさせた場合。その従業員の賃金の一部を助成金として支払うものです。

創設以来、多くの企業で利用され、失業予防に一定の役割を果たしたという評価があります。一方、この助成金があるため、マクロ的には日本経済の構造転換が遅れるとともに、個別企業の体質強化、新事業への進出意欲などを阻害した、という批判も近年聞かれるようになりました。

バブル崩壊後の経済不況のため、完全失業率は、一九九〇年代後半には四%を超えるようになりました。日本の雇用政策は一九七〇年代半ばに大転換が行われ、その骨格を動かさないままでした。高失業率時代に対応した、新たな雇用政策が求められています。