2013年12月25日水曜日

大学閉鎖・合併問題の専門家

他大学との合併(merger)は、単独の機関では経営が困難になった場合に、他の私立大学の一部に併合されることである。ほとんどの大学は、同じ州や地域内の私学と合併している。四年制大学の合併の典型的なパターンは、同程度の規模をもつ同宗派の私立大学と合併して、一つの総合大学な・いしはカレッジになるといり方式であり、短期大学の場合は、より大規模な四年制で同宗派の私立大学に合併吸収されることが多い。

私学との合併の場合でも、宗派系大学が全体の三分の二を占め、合併大学の六割は学生数五〇〇人以下の大学であり、五分の四が共学の大学であった。私立大学が経営能力を失った場合、廃校とはせずに、その州や地域社会に移管されて、公立大学として生き残る場合がある。過去一〇年間には一九校の私学が公立に移管された。これらの私学はほとんどが州のコミニティーカレッジ群または州立大学群の制度の中に吸収されている。移管された私学の半分以上は学生数五〇〇人以下のミニ大学で、すべてが共学校であった。一九八〇年代にはどのような傾向がみられるであろうか。NIICUが一九八四年に出した報告書によれば、一九八〇年から八二年の三年間で、私学の新設校数は一六校、閉校数は二六校、私学との合併は五校、公立への移管は一校であった。これまた閉校数は新設校を上回っている。

以上、一九七〇年から一九八二年の一二年間を合わせると、一三五校の私立高等教育機関が新設され、一七三校のそれが閉鎖された。さらに五三校の私学が他の私学と合併され、二〇校の私学が公立に移管となった。これら閉校、合併、公立移管などなんらかの形で消えていった私学を合わせると、この期間で実に二四六校にも達する。つまり一九七〇年代では、新設校数にほぼ倍する数の私学が、なんらかの形でサバイバルできなかったわけである。

NIICUのレポートは、こうした大学がどんな理由で廃校や合併に追い込まれたかは分析していない。しかしこれまでの数字でみるところでは、消えていった私学の多くは、二年制の短大と四年制のリベラルアーツーカレッジ(教養大学)で、学生数の規模の小さい(多くは五〇〇人以下)、宗派系(カトリック系が多い)の私学である。要するに、歴史も新しく、十分に根を下していない弱小大学が、学生募集難や経営難に直面してつぶれていく、というケースが圧倒的のようである。

一九八〇年代に入ってからの状況については、大学閉鎖・合併問題の専門家であるジョセフーオエール博士が、著者に最新の調査データを提供してくれた。これによると、一九七六年から一九八六年までの一〇年間を対象に、連邦政府の全米高等教育機関の名簿を照合した結果、閉鎖が六二校、合併が四五校、さらに政府の認定資格を失ってリストからはずされているものが六一校であった。

2013年11月7日木曜日

公式的なRSSの見解

彼はいろんな人に尋ねながらRSSの事務所を探してくれた。あともうすぐで事務所に着くという所でリキシャーは急に止まった。「ここからは歩いて行ってくれ」リキシャーの運転手はこの場所を早く立ち去りたいのか、かなりのスピードで瞬く間に消えていった。その後ろ姿を見なから、この町の一見のどかな風景の中に潜む緊張感を感じ取った。そのRSSの事務所は、アヨーディヤーの中心地からは少し離れた場所にあった。私は自分の心臓か激しく鼓動しているのを感じながら門をくぐった。中は広大な敷地か広かっており、そこにいくつかの建物か立っていた。そのうちの一つの建物に人影か見えた。私は声をかけてみた。

「ここはRSSの事務所ですか?」「そうだ」彼はいぶかしげに答えた。「私は日本でヒンドゥー・ナショナリズムのことを研究している学生です。RSSの方々から話をお聞きしたくてやって参りました。どなたかお話をしてくださる方はいらっしゃいませんか?」私がそう言うと、彼は「中へ入って来い」と手招きをした。中に入るとそこには数名の老人がいた。にこやかで温厚な人たちだった。彼らは皆RSSのメンバーだという。そこで、私は事前に用意していた質問事項を次々と聞いていった。彼らは懇切丁寧に答えてくれた。しかし、いかにもイデオローグの語りという感じで、公式的なRSSの見解を語るだけだった。そうこうするうちに、建物の前の広場に若者か集まり始めた。手にはみんな竹の棒を持っていた。

「あっ、これが例のシャーカーか!」武者震いするのを感じた。RSSは毎日、朝と夕方にシャーカーというトレーニングを行なう。整列・行進にはじまり、武術キョーガ、インドの伝統スポーツ、訓話、討論などを行ない、RSSの活動の最も重要なものとされる。私はこのシャーカーをどうしても見たかった。そして、そこに参加する若者だもの聞き取り調査をしたかった。しかし、恐かった。「何をしに来た!」「出て行け!」そう言って追い払われるのではないだろうか? 暴力的な若者たちに痛い目にあわされるのではないだろうか? 私は老人だちとの話を切り上げ、意を決してその若者たちに近づいていった。手は汗でぐっしょり濡れていた。少し距離を置いた場所で、はじめから最後までシャーカーを見た。一生懸命メモをとっている私を彼らは横目でちらちらと気にしながら、トレーユングに励んでいた。

シャーカーが一通り終わるや否や、彼らが私のもとに駆け寄ってきた。心臓の鼓動が高まった。私はとりあえず自己紹介をした。彼らは意外にも目を輝かせながら私の話を聞き、にこやかな笑顔を向けてきた。彼らに話を聞きたい旨を伝えると、今から夕食だからいっしょに食べようと誘ってくれた。夕食の場所に向かう最中、彼らは私を質問攻めにした。「いつインドに来たのか?」「何人兄弟か?」「両親は健在か?」。私との会話をいかにも嬉しそうに楽しんでいる。彼らにとって外国人はよほど珍しい存在なのであろう。しかも、その外国人の私がヒンディー語を話すのか珍しくて仕方ないらしい。皆、満面の笑顔で私に接してくれる。これまでに出会ったことのないような純朴な人たちである。私に対する警戒心は微塵もない。

彼らは、事前に持っていた「粗暴な暴力集団」というイメージからはかけ離れた若者たちであった。この若者たちをどう捉えればいいのか、私は混乱した。彼らに誘われるまま、食事の場所へ到着した。食事の最中、私は正直にRSSの末端活動の調査をしに来た旨を話した。そして、数日間、私の調査に協力してほしいと頼んだ。彼らは即座に答えた。「もちろん大歓迎だよ」その場にいたアヨーディヤーのRSSの代表者も笑顔でうなずいていた。そんなことを正直に話してしまえば追い出されるのではないか? 強く警戒されて態度か豹変するのではないだろうか? そう思って覚悟していた私は拍子抜けした。それと共に緊張感か解けていくのを感じた。私も徐々に笑顔になっていった。翌日から彼らと一緒に生活することになった。



2013年8月28日水曜日

やんばるの森にできた悪性腫瘍

実際、案内してくれた本部の友人がこう言った。「本部町でもSACOの予算で『あじまもとぶ』という産業支援センターを建てましたが、基地がないから維持管理に四苦八苦しています。民間に委託しましたが、これもむずかしいようです。建ててから五、六年はいいのですが、それをすぎると管理費が跳ね上がるからです」本部町の人口は約一万四千人。辺野古地区の一〇倍でも、補助金がなければ維持管理がむずかしいのだ。政府に乗せられて建てるのだろうが、なぜハコモノ以外に使わせろと要求しないのだろう。九割引だからといって、ハコモノに依存すればするほど、結果的に骨まで国にしゃぶられ、基地経済から永久に抜け出せなくなる。まさしく魔のスパイラルである。

巨大な施設を自分で維持することができなければ、たとえ米軍基地反対を叫んでも、結果的に基地を永久に受け入れますという意思表示にならざるを得ない。嫌味な言い方になるが、辺野古を見ていると、「本当は米軍基地が欲しいんでしょう?」とでも言いたくなる。基地がないと県民の生活が成り立たないほどズブズブにはまり込んだら、基地経済から抜け出すことなどまず不可能だ。補助金を受け取るなとは言わない。もらえるものはどんどんもらって当然だ。ただ、同じカネを使うなら、基地がなくなっても、自立を可能にしてくれるものに投資すべきだろう。もしも補助金に縛りがあるというなら、米軍基地の痛みを受ける側として、地元にとって本当に必要なものを粘り強く要求すべきで、それが基地の代償というものだ。ある設計技師は、私にこう言った。

「ハコモノなんて、所詮、五〇年後にはゴミです」沖縄最大の観光資源は「やんばるの森」だと思う。一月の「やんばるの森」は、カンヒザクラが開花し、夜の森にじっと耳をすませると、イシカワガエルやハナサキガエルなどの透き通った鳴き声が聞こえてくる。三月になると森はいっせいに芽吹き、スダジイ、イジュ、タブ、シロダモなどの若葉と濃い緑が大地をだんだら模様に染め、見るも鮮やかな景色があらわれる。生きた化石と呼ばれるノグチゲラが、スダジイなどの大木に巣づくりをするのもこの季節だ。夏は暑くてちょっと辛いが、ヤンバルクイナと遭遇しやすい時期でもある。

やんばるの森はいつ行っても違った顔を見せてくれる。場所によって鳥の鳴き声が違ったり、私たちが見慣れている植物の野生種に近い種類もたくさんあって、何度行っても飽きない。〇七年だったと思うが、核物を研究している方とやんばるの森に入ったのだが、樹間を歩いていると、土砂を棄てている場所に出た。外からは目につきにくいが、赤土が積み上げられ、木々がなぎ倒され、何とも痛々しい風景だった。貴重な森を壊しているのはそれだけではない。最大の破壊行為は「林道開発」という名目の土木事業と、森林面積のほぼ三分の一近くを占める米軍の訓練場だ。地図を見ると、広域基幹林道・大国線と奥与那線が森林を南北に分断し、その東側に米軍の北部訓練場がある。

やんばるの森の破壊がはじまったのは、一九七七年に着工した辺野喜ダムと広域基幹林道・大国線の建設からと言われるが、今は基幹林道から枝分かれした通常林道が複雑に入り組んで迷路のようになっている。沖縄には離島を含む一三市町村に七一路線、二七一キロメートルの林道があり、北部の国頭村だけで一一〇キロメートルと約半分を占める。この林道建設のために、ノグチゲラの営巣木などたくさんの自然木が切り倒された。さらに、林道やダム建設の残土は谷間に捨てられ、沢筋を分断して生態系を攬乱してきた。そもそも、やんばるの森になぜ一一〇キロもの林道を張り巡らせないといけないのか、私には理解できない。


2013年7月5日金曜日

政治がグローバル経済を抹殺した

第一次世界大戦の直前には、イギリスの対外投資残高は国内資本ス訃ックを上回っていた。その後、現在にいたるまで、主要国を見るかぎり、このような例はない。シカゴに染料やアスピリンを供給していた化学メーカーは、ほとんどがドイツを本拠とする多国籍企業であった。シカゴの商品取引所の先物市場は、現在とまったくおなじように、ウクライナの干ばつやブラジルの霜害のニュースに敏感に反応していた。もちろん、いまでは一ミリ秒ですか海外送金も、当時は数時間かかったし、いまと違って、あさってから一泊でブエノスアイレスに行ごうと思い立つ人もいなかった。しかし、経済の本質を見れば、一八九四年当時のシカゴは、現在のロサンゼルスとおなじくらい、グローバル化していた。いうまでもなく、ほんとうの意味でのグローバル経済を可能にしたのは現代技術であるが、グローバル化の契機となった技術は、蒸気機関と電報であったことがわかる。

これが事実だとすれば、なぜ、グロしバル市場がつい最近できたものだと思われているのだろう。それは、最初のグローバル経済を政治が抹殺したからである。一九一四年から四五年にかけての戦争と保護主義によって、それまでシカゴと世界各地を結んでいた貿易、投資の緊密なつながりや、故国の家族との絆が断ち切られてしまったのだ。ある意味では、世界はいまだに回復していない。あまり知られていないが、世界生産に対する世界貿易の比率が一九二二年の水準に回復したのは、意外にも七〇年ころのことである。さらに意外なことに、ネットの国際資本フロー(つまり、実物投資をともなわない複雑な金融取引を除いた資本フロー)の世界貯蓄に対する比率を見ると、ここ数年の「新興市場」ブームの期間ですら、第一次大戦以前にはるかに及ばない。

また、最近、アメリカへの移民が急増していると懸念の声があがっているが、自由の女神像を建てて移民を歓迎した第一次大戦以前ほどの大規模な民族移動はその後、現在にいたるまで見られない。しかし、こうした共通点とは別に、現在のロサンゼルス経済には明らかに、一〇〇年前のシカゴ、あるいは当時のどの都市とも大きく異なる点がある。それは、どのような違いなのだろうか。最大の違い(庶民の生活水準が飛躍的に向上していることは別として)は、現在のロサンゼルス経済が、いわばとらえどころがないことである。つまり、物質的な世界との接点が見えにくい経済なのだ。

たとえば、都市について考えるうえで、いちばん基本になる質問について考えてみよう。その都市がどこにあるのか、なぜその場所にあるのかという問題である。一〇〇年前のアメリカの鉄道地図を広げれば、シカゴが大都市になった理由がすぐにわかるはずだ。シカゴは鉄道がつくった都市である。中西部各地から鉄道路線が集まるとともに、東部と結ぶ幹線の起点でもあった。まさに、地中に張りめぐらした根から栄養を吸い上げ、太い幹へと送り込む役割を果たしていた。中西部の資源の集散地がシカゴでなければならない必然性はなかったが、地理的条件を見れば、ミシガン湖の南岸のどこかが集散地になるのは、かなり自然であった。歴史家、ウィリアムークロノンはシカゴを「天然の大都市」と呼んでいる。

一方、アメリカ第二の都市、ロサンゼルスは。なぜその場所にできたのだろうか。かつては石油が出たが、掘りつくされてしまった。空気がきれいで天候がよいことから、かつては映画産業に適した場所であった。しかし、現在では屋内やロケで撮影されているし、空気はスモッグで汚れている。かつては航空産業に適した場所であった。飛行機を屋外で組み立て、その場でテスト飛行をしていたからだ。しかし、最近では、組み立て作業は工場のなかで行われている。それに、ロサンゼルス空港の上空でテスト機が勝手に旋回したら、管制官がいい顔をするはずがない。ロサンゼルスの代表的な産業がなぜそこに立地しているのか(なぜそこに興ったかではなく)を考えようとすると、かならず堂々めぐりになる。映画撮影所がそこにあるのは、専門技能をもつ人がたくさんいるからだが、専門家がそこにいるのは、映画の仕事があるからだ(もっとも、産業立地を考えるうえで、こうした堂々めぐりは別に間違いではない)。





世界経済のローカル化

経済学はむずかしいと思っている人が少なくない。貿易、国際金融の話となればなおさらだ。こうした場合、だれでも、具体的なイメージを描けるような例を探すものである。そして、ふつう国際市場で成功している(または失敗している)企業に、例を求める。しかし、こうした例によって考えていくと、理解を誤ることが多い。ゼネラルーモーターズは、社内の人間がどう考えていようと、アメリカ経済を代表しているわけではない。たとえ、どの企業を調べようとも、どれほど多くの企業を調べようとも、アメリカ経済の全体像をとらえることはできない。一国の経済は、部分の寄せ集めではないのだ。アメリカ経済がどのように変化しているかを理解するには、生産者と消費者が互いに影響しあっていること、国際的な企業競争の実例を寄せ集めたところで、こうした相互作用は見えてこないことを頭に入れておく必要がある。

それにしても、国の経済は大きすぎて、ふつうの人は実感がわかない。全体像をつかむヒントになるようなものはないだろうか。少し変わった答えになるが、経済学者の間で一般的になっている方法を使ってみるのもよいだろう。アメリカ経済を理解するには、アメリカの都市を調べるのがいちばんである。そこで、以下では、時代と場所が異なる二つの都市、一〇〇年前のシカゴと現在のロサンゼルスについて見ていくことにする。この二つの都市はいずれも、半世紀の間に村から大都市へと急速に発展している。また、いずれもアメリカの大都市であり、アメリカを象徴する都市だといってよい。

それぞれの都市がもつエネルギー、ライフースタイル、さらには抱える問題までも、その時代のアメリカ社会、アメリカ経済の特徴を示している。アメリカ経済の実態と世界経済での位置づけが誤解されている場合が多いが、そうした誤解を多少なりとも解きほぐすうえで、この二つの都市を比較するのが、わたしの知るかぎり最良の方法である。一〇〇年前のシカゴと現在のロサンゼルスを頭に描いて、まず思いつくのは、対照的な特徴であろう。スノーベルトとサンベルト、内陸と太平洋沿岸という対比であり、経済に関して、この種の対比が語られることが多い。しかし、これは表面的な見方であり、現実的な経済分析ではなくキャッチーフレーズにすぎない。実態を知るには、もう少し掘り下げる必要がある。

一八九四年当時のシカゴと一九九四年のロサンゼルスをくらべてみると、意外にも共通点が多いことがわかる。いずれも急速に大都市に成長した新興都市である。わずか五〇年ほどの間に、連鎖反応ともいえるブームで村から大都市へと変貌をとげている。また、いずれも移民のまちである。現在のロサンゼルスが一部の白人にとって外国のように思えるとすれば、外国生まれの住民が半数を占めていた一九〇〇年当時のシカゴを見たら、なんと思っただろう。いうまでもなく、当時のシカゴも現在のロサンゼルスも貧富の差が激しく、人間社会の進歩を楽観することが許されないほど、社会病理を抱えている。かつてのシカゴが、アメリカ史上最悪の都市であることはたしかだ。現在のロサンゼルスでも貧困層が増え、ギャングや麻薬も珍しくないが、少なくともいまのところ、かつてのシカゴほど社会問題が深刻になってはいない。

二つの都市をくらべてみて、いちばん意外な発見は、いずれも貿易と金融を通じて世界各地と密接につながっていることだろう。グローバル経済がつい最近できたばかりだと考えるのは、現代人のうぬぼれにすぎない。たしかに、新聞や雑誌を見れば、『ボーイングとエアバスが競争し、日本の投資家がニューヨークの不動産を買い、BMWがサウスカロライナ州に工場進出し、世界の株式市場がヨーロッパからのニュースで変動している。このため、経済がかつてないほどにグローバル化七ていると思い込む。もちろん、一〇〇年前の人たちは、これほど世界が狭くなるとは思いもよらなかっただろう。しかし、当時、シカゴの精肉会社にとっては、ニュージーランドとの競争が切実な問題であった。鉄道交通の要衝であるシカゴには、各地から牛肉や小麦が運ばれ、ヨーロッパ市場に輸出されていた。これらの鉄道の建設費用は、大部分がヨーロッパの資本によってまかなわれていた。



所得格差の拡大

こうした逆転現象はあくまで例外であり、一般的な傾向にはならないのではないだろうか。かならずしも、そうとはいえない。むしろ、技術は長期的に、フソンボリックーアナリスド」の仕事の価値を低下させ、だれでももっている能力の価値を上昇させる傾向にあるとわたしは考えている。優れた専門家といえども、厳密な論理に沿って考えることは案外、苦手である。ところが、ごくふつうの人でも、スーパー・コンピューターもはるかに及ばないほど、あいまいな情報処理をこなしている。人工知能を提唱したマービンーミンスキーは、こう指摘する。「一九五六年のプログラムでは、計算問題が解けた。

六一年のプログラムでは、大学レベルの数式が解けた。七〇年代になってようやく、ロボットのプログラムがつくれるようになったが、子供が積み木を積み重ねる程度の認識能力と制御能力しかなかった。なんでもない常識だと思われていることが、じつは、高等だとされている専門知識より複雑である場合が多い」。チェスのプログラムはいまのところ、世界チャンピオンを破るほどの実力はないが、いずれは勝てるようになるだろう。しかし、顔を見分ける点で二歳の子供程度の認識能力をもつプログラムは、いまだに遠い夢である。

最近、『プレイヤー・ピアノ』を読み返してみて、ボネガットが四〇年以上も前に描いていた完全自動化工場に、現実味を感じた。しかし、いったいだれが工場を(あるいは、小説に登場する産業エリートの家を)掃除するのだろうという疑問がわいた。こうした日常的な仕事が自動化されているかどうかについて、いっさい触れられていないのは、決して偶然ではない。なんでもないと思われている仕事をこなせる機械、つまり、ふつうの人の常識を備えて、単純仕事をこなせる機械をつくれるようになるのは、ずっと先のことであると、ボネガットはわかっていたに違いない。

そこで、こう考えることもできる。将来、税理関係の弁護士の多くが、エキスパートーシステムーソフトに取って代わられることはあるかもしれない。それでも、人間でなくてはできない仕事、しかも賃金の高い仕事はまだ残っている。庭の手入れ、家の掃除など、ほんとうにむずかしい仕事は、たくさん残っているはずだ。消費財価格が着実に低下し、こうしたサービスが家計支出に占める割合はますます大きくなっていく。ここ二〇年間、優遇されてきた高度な専門能力を必要とする職業が、一九世紀はじめの機織りとおなじ道をたどることになるかもしれない。機織りも、糸紡ぎの機械化にともなって所得が急増したが、やがて、産業革命の波が自分たちの職種に及んで没落した。

したがって、現在のように所得格差が拡大し、ふつうの仕事の価値が下がる現象は、一時的なものに終わるとわたしは考えている。むしろ、長い目で見れば、形勢が逆転することになるだろう。不自然だからこそ希少価値のあった特殊な仕事は、ほとんどがコンピューターによって取って代わられるか、簡単になる。しかし、だれにでもできる仕事はまだ、機械が代わりをすることはできないだろう。つまり、いまの不平等な時代が過ぎ去り、輝かしい平等の時代が訪れることになるだろう。もちろん、さらに長い目で見れば、人間のすることを機械がすべてこなせるようになる。しかし、そのころには、この問題を考えるのも機械の仕事になっている。

熟練労働者の需要

企業幹部、弁護士、さらに野心的な学者すらも、コンピューター、ファクス、電子メールを使えば、以前よりもはるかに行動範囲を広げることができる。その結果、賃金構造は「勝ち抜き戦」の様相を強めると、ローゼンは予測している。基準がどうあれ、いちばん優れていると評価された少数の人が高額の金銭的報酬を受け取り、人並みの能力しかない人は、わずかな報酬しかもらえないというのだ。ローゼンの分析で重要な点は、技術が直接、労働者に取って代わるのではなく、技術が一部の人の力を増幅させることである。その結果、幸運な優勝者があらわれて、そこまでは幸運でなかった大勢の人に取って代わるのである。テレビは、ナイトクラブに出演する多数の名もないコメディアンに取って代わったわけではない。しかし、ジェイーリーノが取って代われる状況をつくりだした。

技術は今後も、少数の幸運な人に有利に働き、その他大勢には不利に働くのだろうか。それとも、後になってみたら、二〇世紀の最後の二五年間は、ふつうの人にとって不運な時代だったが、それは一時的な現象にすぎなかったことになるのだろうか。一見すると、技術の進歩にともなって、当然、能力の価値は高くなる一方のように思える。コンピューターなどの高度な情報システムが、アメリカ経済にとってますます重要になっている時代に、能力の価値が下がることなぞ、ありえないではないか。抜群の知的能力と才能をもつ人(ロバートーライシュ労働長官のいう「シンボリック・アナリスト」になれる人)しか、よい仕事につけないのは、当然ではないか。

しかし、歴史の教訓によれば、最近の傾向が今後も続くと考えると、往々にして判断を誤る。技術は鉄道の線路より螺旋階段に近い。のぼっていくにつれ、つぎつぎに方向が変わっていく。産業革命の長期的影響がいい例だ。ビクトリア時代の未来学者にとって、労働節約型、資本集約型という産業技術の傾向は、永遠に続くものであり、資本家と労働者階級の溝は深まるばかりだと思われた。H・G・ウェルズは『タイムーマシン』(一八九五年)で、労働者が人間以下の地位に落ちる未来世界を描いている。しかし、こうしたビクトリア時代の予測は、結局外れた。それどころか、現在のように経済指標が発表されていれば、この小説を書くはるか以前から、労働者の賃金が上昇に転じていたことにウェルズは気づいていただろう。二〇世紀に入ってからは、国民所得に占める資本所得の割合が低下し、労働所得の割合が上昇している。

さらに、技術の進歩がかならずしも、熟練労働者の需要を高めるとはかぎらない。逆に、過去には機械化がもたらした主な結果のひとつとして、さまざまな職種で特殊技能の必要が減ったことがあげられる。手織機で布を織るには、相当の技能と経験が必要だったが、動力織機の操作なら、だれでもおぼえることができた。もちろん、これまでは、技術が進歩するにつれ、ある種の能力に対する需要が一貫して高まっている。それは、学校教育で養われる能力、いわゆる勉強ができる人の方が身につけやすい能力である。二〇〇年前には、読み書きの能力を必要とする仕事は、わずかしかなかった。一〇〇年前には、現在の大学レベルの知識を必要とする仕事は、ごくわずかであった。ところが、現在では大学教育は金持ちの贅沢ではなく、実用性の高いものになっており、キャリア志向の人にとっては必須の条件になっている。

しかし、こうした傾向がいつまでも続くとはかぎらない。技術が本来、大学教育集約型になり、大学教育節約型にはならないといえる理由は、どこにもない。これはなにも将来の話ではなく、現在でも起きていることである。実際の例もあげることができる。たとえば、この小論は買ったばかりのワープロで書いているが、マニュアルを読まなくても使える。グラフィックーインターフェースのおかげで、アイコンのメニューを選択すればいいようになっているので、どうすればよいか、たいていはわかる。、わからなくなったら、ボタンを押すだけでヘルプ画面を呼び出せる。「ユーザー・フレンドリー」という言葉は、以前よりも能力を必要としない生産技術を意味している。





2013年3月30日土曜日

カメラを見れば人柄が分かる

カメラにとって最大の敵はカビです。湿気のある場所に長い間、カメラを放っておくと、ファインダーのプリズムやレンズにいつのまにかカビが忍び込み、糸状菌が伸びて枝を広げてしまいます。特に長期間にわたって使わないときは、保管場所に気をつけましょう。せっかく高いお金を出して手に入れたカメラだからといって、押し入れや机の奥深くに入れっぱなしにしておくのは禁物です。

前にも書きましたが、一本のレンズは数枚から十数枚の凹凸レンズを組み合わせてできています。ひとたびカビがレンズに入り込むと、表面ばかりかレンズとレンズの隙間にまで侵入して、ガラスそのものを食い荒らします。早い時期に見つけて取りのぞけば助かりますが、放っておくと繁殖をつづけ、カビを拭きとっても胞子が残っていると何度でも発生します。こうなると、メーカーに持ち込んでも完全に除去することは不可能です。レンズの解像力が失われ、薄く霧のかかったような画像の写真しか写らなくなります。

このような事態を防ぐには、しじゅう使うか、カビが発生しない乾燥した場所に保管するしかありません。密閉できる木箱や耀の中に乾燥剤といっしょに入れておけば、だいたいはOKですが、それでも心配な方は、防湿装置のついたカメラ収納用キャビネットを奮発してください。カビは湿度六〇パーセント以下、気温一五度以下では発生しないといわれますが、この条件をクリアしたものがカメラ収納用キャビネットと呼ばれるものです。このキャビネットには、ビデオカメラやデジカメ、双眼鏡、買い置きのフィルムなども入れられるので、あれば便利です。大きさも部屋のスペースに合わせられるよう、さまざまなタイプが発売されています。

前にも触れたように、カメラは暑さや寒さにもとてもデリケートな機械です。真夏には六〇度にもなる車のリアウィンドーやトラ。ンクルームに長時間置くと、故障の原因になったりフィルムにも悪い影響を与えかねません。また海辺での撮影は、しぶきや風が運ぶ微少な塩分がカメラやレンズに付着し、腐食を招く原因になります。特別な防水構造になっている水中カメラ以外は、水にも海の風にも神経質なくらい注意を払ってください。撮影の合い間は首から下げて上着やコートの中に入れ、終わったら丁寧に布で拭くことを忘れないでください。潮風ばかりでなく細かな砂ボコリも大敵です。大きめのタオルを持ってゆき、撮影が終わったらすぐに包むかバッグの中に入れ、できるだけ日陰に置くようにします。

寒冷地での撮影では、電池が急激に弱りカメラが動かなくなることがあります。こういうときは体日皿、日皿まったコートの中に入れるとか、厚めの布に包んでカメラバッグに入れて持ち歩くようにします。最近は寒さに強いリチウム電池のおかげでぐんと耐寒性が増しましたが、やはり体温のある生き物と思って、長時間冷たい空気にさらさないよう大切に扱ってください。カメラは温度差にもとても敏感です。スキー場から急に暖かい室内に入ったり、夏場などに冷房の効いた場所からいきなり外に出た途端、レンズがパッと細かい水滴でくもる(結露)ことがあります。こういうときは、しばらくバッグごと撮影場所に置いておき、その場の気温に馴染んだところでカメラを取り出せば、くもることはありません。