2013年7月5日金曜日

熟練労働者の需要

企業幹部、弁護士、さらに野心的な学者すらも、コンピューター、ファクス、電子メールを使えば、以前よりもはるかに行動範囲を広げることができる。その結果、賃金構造は「勝ち抜き戦」の様相を強めると、ローゼンは予測している。基準がどうあれ、いちばん優れていると評価された少数の人が高額の金銭的報酬を受け取り、人並みの能力しかない人は、わずかな報酬しかもらえないというのだ。ローゼンの分析で重要な点は、技術が直接、労働者に取って代わるのではなく、技術が一部の人の力を増幅させることである。その結果、幸運な優勝者があらわれて、そこまでは幸運でなかった大勢の人に取って代わるのである。テレビは、ナイトクラブに出演する多数の名もないコメディアンに取って代わったわけではない。しかし、ジェイーリーノが取って代われる状況をつくりだした。

技術は今後も、少数の幸運な人に有利に働き、その他大勢には不利に働くのだろうか。それとも、後になってみたら、二〇世紀の最後の二五年間は、ふつうの人にとって不運な時代だったが、それは一時的な現象にすぎなかったことになるのだろうか。一見すると、技術の進歩にともなって、当然、能力の価値は高くなる一方のように思える。コンピューターなどの高度な情報システムが、アメリカ経済にとってますます重要になっている時代に、能力の価値が下がることなぞ、ありえないではないか。抜群の知的能力と才能をもつ人(ロバートーライシュ労働長官のいう「シンボリック・アナリスト」になれる人)しか、よい仕事につけないのは、当然ではないか。

しかし、歴史の教訓によれば、最近の傾向が今後も続くと考えると、往々にして判断を誤る。技術は鉄道の線路より螺旋階段に近い。のぼっていくにつれ、つぎつぎに方向が変わっていく。産業革命の長期的影響がいい例だ。ビクトリア時代の未来学者にとって、労働節約型、資本集約型という産業技術の傾向は、永遠に続くものであり、資本家と労働者階級の溝は深まるばかりだと思われた。H・G・ウェルズは『タイムーマシン』(一八九五年)で、労働者が人間以下の地位に落ちる未来世界を描いている。しかし、こうしたビクトリア時代の予測は、結局外れた。それどころか、現在のように経済指標が発表されていれば、この小説を書くはるか以前から、労働者の賃金が上昇に転じていたことにウェルズは気づいていただろう。二〇世紀に入ってからは、国民所得に占める資本所得の割合が低下し、労働所得の割合が上昇している。

さらに、技術の進歩がかならずしも、熟練労働者の需要を高めるとはかぎらない。逆に、過去には機械化がもたらした主な結果のひとつとして、さまざまな職種で特殊技能の必要が減ったことがあげられる。手織機で布を織るには、相当の技能と経験が必要だったが、動力織機の操作なら、だれでもおぼえることができた。もちろん、これまでは、技術が進歩するにつれ、ある種の能力に対する需要が一貫して高まっている。それは、学校教育で養われる能力、いわゆる勉強ができる人の方が身につけやすい能力である。二〇〇年前には、読み書きの能力を必要とする仕事は、わずかしかなかった。一〇〇年前には、現在の大学レベルの知識を必要とする仕事は、ごくわずかであった。ところが、現在では大学教育は金持ちの贅沢ではなく、実用性の高いものになっており、キャリア志向の人にとっては必須の条件になっている。

しかし、こうした傾向がいつまでも続くとはかぎらない。技術が本来、大学教育集約型になり、大学教育節約型にはならないといえる理由は、どこにもない。これはなにも将来の話ではなく、現在でも起きていることである。実際の例もあげることができる。たとえば、この小論は買ったばかりのワープロで書いているが、マニュアルを読まなくても使える。グラフィックーインターフェースのおかげで、アイコンのメニューを選択すればいいようになっているので、どうすればよいか、たいていはわかる。、わからなくなったら、ボタンを押すだけでヘルプ画面を呼び出せる。「ユーザー・フレンドリー」という言葉は、以前よりも能力を必要としない生産技術を意味している。