2013年7月5日金曜日

所得格差の拡大

こうした逆転現象はあくまで例外であり、一般的な傾向にはならないのではないだろうか。かならずしも、そうとはいえない。むしろ、技術は長期的に、フソンボリックーアナリスド」の仕事の価値を低下させ、だれでももっている能力の価値を上昇させる傾向にあるとわたしは考えている。優れた専門家といえども、厳密な論理に沿って考えることは案外、苦手である。ところが、ごくふつうの人でも、スーパー・コンピューターもはるかに及ばないほど、あいまいな情報処理をこなしている。人工知能を提唱したマービンーミンスキーは、こう指摘する。「一九五六年のプログラムでは、計算問題が解けた。

六一年のプログラムでは、大学レベルの数式が解けた。七〇年代になってようやく、ロボットのプログラムがつくれるようになったが、子供が積み木を積み重ねる程度の認識能力と制御能力しかなかった。なんでもない常識だと思われていることが、じつは、高等だとされている専門知識より複雑である場合が多い」。チェスのプログラムはいまのところ、世界チャンピオンを破るほどの実力はないが、いずれは勝てるようになるだろう。しかし、顔を見分ける点で二歳の子供程度の認識能力をもつプログラムは、いまだに遠い夢である。

最近、『プレイヤー・ピアノ』を読み返してみて、ボネガットが四〇年以上も前に描いていた完全自動化工場に、現実味を感じた。しかし、いったいだれが工場を(あるいは、小説に登場する産業エリートの家を)掃除するのだろうという疑問がわいた。こうした日常的な仕事が自動化されているかどうかについて、いっさい触れられていないのは、決して偶然ではない。なんでもないと思われている仕事をこなせる機械、つまり、ふつうの人の常識を備えて、単純仕事をこなせる機械をつくれるようになるのは、ずっと先のことであると、ボネガットはわかっていたに違いない。

そこで、こう考えることもできる。将来、税理関係の弁護士の多くが、エキスパートーシステムーソフトに取って代わられることはあるかもしれない。それでも、人間でなくてはできない仕事、しかも賃金の高い仕事はまだ残っている。庭の手入れ、家の掃除など、ほんとうにむずかしい仕事は、たくさん残っているはずだ。消費財価格が着実に低下し、こうしたサービスが家計支出に占める割合はますます大きくなっていく。ここ二〇年間、優遇されてきた高度な専門能力を必要とする職業が、一九世紀はじめの機織りとおなじ道をたどることになるかもしれない。機織りも、糸紡ぎの機械化にともなって所得が急増したが、やがて、産業革命の波が自分たちの職種に及んで没落した。

したがって、現在のように所得格差が拡大し、ふつうの仕事の価値が下がる現象は、一時的なものに終わるとわたしは考えている。むしろ、長い目で見れば、形勢が逆転することになるだろう。不自然だからこそ希少価値のあった特殊な仕事は、ほとんどがコンピューターによって取って代わられるか、簡単になる。しかし、だれにでもできる仕事はまだ、機械が代わりをすることはできないだろう。つまり、いまの不平等な時代が過ぎ去り、輝かしい平等の時代が訪れることになるだろう。もちろん、さらに長い目で見れば、人間のすることを機械がすべてこなせるようになる。しかし、そのころには、この問題を考えるのも機械の仕事になっている。